(注)
「違う。何度言ったら理解出来るんだ。」
聞くか否か、男の顔が逆さまになった。みぞおちに強い衝撃を感じたと思えば、ヒカゲの体は宙に浮いていた。碌に受け身も摂らないままに、固い土の感触を一心に受ける。しかしヒカゲはすぐに痛みに歪む顔を堪え、男を睨みつけたまま構えの型を取った。こぶしを握り締め、腰を低くして臨戦態勢に移る。今度こそと言うように足を踏み出すが、握った拳はそれよりも強い力で押され、ヒカゲの瞳は再び地面を捉えていた。土の匂いを感じヒカゲの小さな鼻に軽い衝撃が走ったが、寸前でなんとか腕を動かし、顔だけは守り抜く。そのままコロコロと地面を前転し続け、止まった時には荒い息を吐いていた。仰向けのまま空を見上げ息を整えていたが、日光に当たっていた自分の体が急に日陰に入り青ざめる。男が無表情のまま、口だけ曲げて見下ろしていた。
「ごめんなさ」
体をうつ伏せに変え手を付き立ち上がろうとするが、それを男の声が制した。
「頑張ったな。今日はもうご飯にしよう。」
恐る恐る見上げた顔は、ヒカゲを容赦なく投げた人物とは思えない程優しい顔に変っていた。ヒカゲは男が腰を落としながら差し出した右手を頼りなく触るが、ヒカゲの小さな手はしっかりと握りしめられた。男の腕に合わせて、地面についていた体がゆっくりと立ち上がる。ヒカゲは男の顔をぼんやりと眺めると、この人は陽だまりの様だと思った。陽だまりの様に笑う。男が目を細め、愛おしそうに見つめると、まるで木漏れ日に照らされているように感じた。
「アレグレットが待っている。今日の夕飯は何だろうな。」
そう言って西日に照らされた男の金色の髪が、とてもきれいだった。
「リタルダンドさん…」
ヒカゲの恋しそうに男を呼ぶ声が漏れてしまった。リタルダンド(以降リンと表記)が「どうした?」と聞くような顔で振り返る。繋がれていない左手を、固く、握りしめて俯いた。
「・・・何でもないです…」
何でもなくはない。とでも言う様に、手の中で力なくしな垂れる小さな手を感じたが、リンは何も気付かないふりをした。
夕食を終え、ヒカゲはソファにうずくまり考えていた。二階からは同居人のディミヌエンドが部屋に入った音がする。後ろではアレグレットが鼻歌を口遊みながら、食器を洗っている。アレグレッとの奏でる幸せそうな音を聞くと、ヒカゲは胸が痛くなった。
自分の過去は、絶対に話してはいけない。そう心に決めた。しかし優しい彼らと共に過ごせば過す程、ヒカゲの心はきつくなった。
ヒカゲは軍部に拾われた孤児であったが、ある日ヒカゲは虚をつきそこを抜け出してしまった。正規の手続きを踏んで退所した訳ではない、言うならば脱走兵である自分の出自は、絶対に知られてはいけない。知られたならば親しい人全てに不幸が及ぶかもしれない。何もする事がない時、ヒカゲはつい考えてしまう。想像が想像を生み、最悪の事態までが頭を過る。自分の存在が、平凡な家庭を壊してしまう。膝を抱え俯いていると、そっと大きな手が肩に触れた。
「寝ているのか?勉強の時間だろう?」
見上げると、いつの間にいたのか、リンが顔を覗き込んでいた。不思議そうに顔を傾げるいつも通りの表情のリンを見て胸を撫で下ろす。
「起きてます。勉強します。」
リンによって食後寝る前の一、二時間は勉強の時間に当てられていた。家庭教師の役割をこなすリンに、マンツーマンで指導を受ける。物思いに耽っている場合ではなかったと反省し、ヒカゲは教材を取りに行こうとするが、リンの手には既に一式が握られていた。
促がされるままにダイニングテーブルに着席し、指示された問題から解いていく。
「やっぱり呑み込みが早いな。」
リンは採点を終えると眉をひそめ、教科書を見ながら呟いた。
「今日は次の単元に行くか・・」
勉強が出来るのもそのはずだった。軍部にいた時に、ある程度一通り教わっていたからだ。リンはヒカゲのノートに図形を書くと、鉛筆で書き加えながらぶつぶつと呟いた。つぶやきを聞きながら、ヒカゲはリンの事を天才型なのだろうなと思った。時々当たりの授業もあるが、基本的にリンの説明は独りよがりだった。聞こえるか聞こえないかというくらいの声で、ヒカゲの相槌を待つこともなく自分だけで納得しながら話を進めてしまう。一言でも逃すとついて行けなくなり、ヒカゲは思考の波へと飛んでしまう。
「という感じだな。三十五ページから三十六ページまで解いてもらおうかな。わかんない所は質問して・・・聞いているのか?」
いつの間にか目の前で顔を覗き込んでいたリンの瞳と、ヒカゲの目が重なり合った。
「あっ、き、聞いています。三十五ページから三十六ページ。」
そう言ってぱらぱらとページをめくるが、不意を突いてきたリンの言葉は予想外の物で、ヒカゲは体を硬くした。
「お前、この間の試験、白紙で出しただろ」
肩が揺れた。動揺を悟られまいと顔を動かさずにいたが、リンの低い声からも、リンの顔がヒカゲを睨みつけている事が分かった。
「あ・・・」
「なんでそんな事をした。」
リンの問い詰めるような声に、喉が絞まった。
「わ・・・分からなかったからです・・」
ヒカゲの絞り出したような声に、リンのため息を付く声が聞こえる。
「分からなかったからです。問題が難しすぎて、分からなかったんです。」
下を向き、こぶしを握り締め、力強く答える。リンの再度ため息を付く声が聞こえた。
「じゃぁ、折角書いた答えを全部消して、白紙で出したのは何故だ」
リンの声色が、ヒカゲを批難していた。問い詰められ鼓動が早くなり、全身が熱くなったり冷たくなったりする。
「採点をした教師に聞いた。筆圧を辿ってくれたそうだ。得点はほぼ満点。わざわざ消したりしなければ受かっていた。なぜ消した。学校側は馬鹿にしていると言ってかんかんだ。もうこの学校は受験できない。」
「・・・・」
「なぜ消した。」
リンの切れ長の瞳が見下ろしてくる。まるでヘビに睨まれているようだった。ヒカゲは爪が喰いこむ程の拳を作り、唇を噛んだ。その眼には、やるせない感情が宿っていた。
「どうして・・・」
「聞こえない。」
「どうして」
「・・・」
「どうして私だけ学校に!リタルダンドさんもディミヌエンドさんもアレグレットさんだって行ってないじゃないですか!どうして!」
ありったけの声を出した。ありったけの声を出したら、口を急いでへの字に曲げたが遅かった。グッ、グッッと詰まらない嗚咽が漏れ、ヒカゲの手が濡れて冷たくなった。リンは一瞬目を見開くと、すぐに目を伏せ、諦めたような顔でヒカゲの腕を触った。
「泣くな。」
「泣いてないです。」
「もっとちゃんと言葉を交わしておくべきだった・・・」
リンの手が、ヒカゲの肩から腕をそっと撫でる。
私だって働ける。迷惑にはなりたくない。
「お前の話を聞かずに、強制的に受験させたのは悪かった。」
リンが悪いわけではない。自分が悪いのだ。ヒカゲは顔を横に振る。
「子供は我慢をするもんじゃない。お前は勉強が出来るんだ。学校に行くべきだ。」
あなたも子供じゃないか。ヒカゲは思った。ヒカゲを撫でる温かく大きな手が、リンが大人だという事を物語っていた。しかしヒカゲとリンは四つしか離れていなかった。十三歳のヒカゲに対して、十七歳のリタルダンド。成人していない彼に養われているという事実が、ヒカゲを許そうとしなかった。リタルダンドもまた、世間の都合に振り回され、満足に教育を受けられなかった一人だからだ。そんなヒカゲの気持ちを知ってか知らずか、リンは続けた。
「学校に行けヒカゲ。そして夢を見つけ夢を持て。友達を作り、世界を知るんだ。」
涙目で見上げたリンは、とても優しい顔をしていた。
「金の事は心配するな。お前を学校に行かせて苦しくなる程柔ではない。」
リンの黄緑色の瞳には、強い意志が宿っていた。
「夢を持て。夢を見つけろ。働くのは、それからで遅くない。」
ヒカゲの体を包むように抱きしめる。背中をポンポンと叩くと、泣いているヒカゲが弱弱しく応えた。背中に震える小さな手の感触が伝わる。リンはリンの服に顔を埋め泣くヒカゲに顔を見られない事に安堵し、悲しく眉を下げた。そして再び、とてもいとおしそうにヒカゲの事を強く握りしめた。
「大丈夫?」
泣きつかれたヒカゲをソファに運び、自分の足を枕にするリンに、見かねたアレグレットが声を掛けた。リンは一瞬アレグレットの方を見上げると、すぐにヒカゲへと視線を移し、梳くように髪を撫でた。
「泣き疲れて寝ちゃったよ。」
振り向かずに続けるリンの表情は、アレグレットからは見えない。
「ごめんな・・・」
呟くように謝る暗い声に、アレグレットは目を白黒させた。
「どうしたの?急に」
明るく声を掛け、ソファの後ろからリンの顔を覗いた。
「お前も、学校、行きたいんじゃないか・・?年頃の女の子としての幸せを・・」
リンの目は虚ろで、どこか遠くを見つめているようだった。
「やだ。何を言ってるの?ヒカゲちゃんのように勉強が出来るのであればまだしも、女子が入れる学校なんてほとんどない事、リンの方が詳しいはずじゃない。家政学校とかもあるけれど、そういうのは貴族のご息女たちの行くところだわ。」
アレグレットは軽く言い放ったが、リンは苦虫を噛み潰したような顔をし、こぶしをわなわなと震わせていた。
「すまない。俺のせいで、お前の未来を奪ってしまった。」
「何を言っているの?リンがいたから、私は今も生きていられるのよ?今だって、あなたのお蔭で生活出来ているんだから。これ以上望む事なんて」
アレグレットの言葉は、ヒカゲを抱きかかえたまま立ち上がったリンに遮られた。
「恋をして、好きな人を作って結婚する。そんな当たり前の事も、出来ないだろ?」
「・・・・」
「部屋に寝せてくるよ」
息を飲むアレグレットに、悲しい目を残していったリタルダンド。
「望む事なんて無いって、言ってるじゃない・・・」
アレグレットの言葉はコーヒーにミルクを一滴落とすように、波紋を作ることなく消えていった。
解説